磐田市立総合病院
副病院長兼看護部長 工藤ゆかり
経験から科学へ、そして地域へ広がる最前線で看護を実践する時代
― 工藤さんがこれまで見てこられた中で、看護のあり方や看護師の役割はどのように変化してきたと感じていらっしゃいますか?
工藤: そうですね。私が看護師として歩み始めた頃は、まさに「経験がものを言う」という言葉がしっくりくる時代でした。先輩看護師の動きを見て、その技術を盗み、実践の中で一つひとつを体で覚えていく。それが看護を学ぶ上での基本的な姿勢であり、日々の業務の中で叩き上げられていくような感覚でしたね。
― まさに職人の世界のような、実践を通して技術を継承していくイメージですね。
工藤: はい。その影響もあってか、看護という分野が学問として体系的に発展するのが少し遅れたのではないかとどなたかが指摘されていたのを聞いたことがあります。経験則に基づいた知識や技術が口伝や見様見真似で引き継がれてきたため、それを客観的な言葉で定義し、理論として構築していく力が相対的に弱かったのかもしれません。その結果として、看護学としての学術的な進歩が、他の医療分野に比べて緩やかだったのではないかと感じています。
― 経験知の蓄積と伝承が中心だったということですね。
工藤: ええ。しかし、それではいけない、看護もエビデンスに基づいた専門性の高い分野であるべきだと気づいた多くの先人たちが、看護実践を理論化し、学問として発展させるための努力を重ねてこられました。その大きな流れの中で、現在の看護はより科学的な根拠に基づいた実践が強く求められるようになってきたと実感しています。以前は、まず経験してみて、その経験から得た知見を後から理論で裏付ける、というようなアプローチが多かったように思いますが、今はしっかりとした理論を学んだ上で臨床に臨む、あるいは臨床での経験を理論に照らし合わせて深く考察するという、実践と理論を行き来する姿勢が非常に重要視されています。
― 看護師の働く場所や求められる役割という点では、どのような変化を感じていらっしゃいますか?
工藤: かつては、看護師の主な活動の場といえば病院というイメージが強かったと思いますが、その状況はここ十数年で大きく変わってきています。特に、近年のコロナ禍を経験したことで、病院という施設だけでは対応しきれない健康課題が浮き彫りになりました。感染症に関する専門知識は当然のことながら、それ以外にも、社会のあらゆる場面で看護の専門性を活かして力を発揮しなければならないという認識が広がったように思います。
― 病院という枠組みを超えて、看護のフィールドが広がっているのですね。
工藤: はい。国が推進している地域包括ケアシステムの構築もその流れを後押ししています。患者さんが住み慣れた地域や自宅で安心して最期まで自分らしく過ごせるように支援するためには、看護師の役割は地域社会全体へと広がっていく必要があります。疾病の治療やケアだけでなく、健康増進や予防活動、そして穏やかな看取りに至るまで、人々の生活全体を包括的に支える視点が不可欠になっています。その意味で、看護師の活動範囲は以前とは比較にならないほど広がり、より多角的で深い知識と、多様な状況に対応できる柔軟なスキルが求められていると感じています。
― 経験を重んじる伝統的な看護から、科学的根拠に基づいた専門性の高い看護へ、そして、活動の舞台も病院だけでなく地域社会へと非常に大きな変化と進化があったのですね。
工藤: そうですね。そのダイナミックな変化の中で、私たち看護師自身も現状に甘んじることなく、常に新しい知識や技術をどん欲に学び続け、変化に対応していく柔軟性と向上心を持ち続ける必要性を日々痛感しています。
多様化する看護ニーズに応えるため、個々の成長ペースを考慮した育成をしていきたい
― そうした看護を取り巻く環境の変化に対応していくために、看護師の育成という側面で、病院としてどのような取り組みをされているのでしょうか?
工藤: 新人看護師の教育には、特に重点を置いて取り組んでいます。私たちが新人の頃は、先輩の背中を見て学ぶという側面も少なからずありましたが、現在は教育方法そのものがより体系化され、一人ひとりの個性や成長のペースに合わせて、じっくりと時間をかけて育成する体制へと変化しています。
― 具体的には、どのような教育システムを導入されているのですか?
工藤: 当院では、看護師のキャリア発達を支援するためにクリニカルラダーシステムを導入していますが、その中でも特に特徴的だと考えているのは、ラダーの各段階をより細かく設定している点です。例えば、一般的にラダーレベル2、ラダーレベル3とされる段階を、当院ではさらにそれぞれをaとb(AとB)の2段階に分けて運用しています。
― 細分化することには、どのような意図や目的があるのでしょうか?
工藤:看護師といっても、その教育的背景は様々です。専門学校を卒業した人もいれば、4年制大学を卒業した人もいますし、社会人経験を経て看護の道に進んだ人もいます。当然、個々の成長スピードや得意な分野も異なります。画一的なラダーシステムでは、どうしても進捗の早い人に合わせてしまい、ついていくのが難しいと感じる人が出てきたり、逆にステップアップの機会が少なく、物足りなさを感じる人が出てきたりする可能性があります。そこで、より小さなステップを設けることで、一人ひとりが主体性を持って確実に目標を達成し、成長を実感しながら次の段階へ進めるように、きめ細かく段階を設定しているのです。
― なるほど、個々の学習進度や特性に、より柔軟に対応できるようになるのですね。
工藤: はい。そして、指導体制に関しても変化があります。以前は、一人の先輩看護師が一人の新人看護師をマンツーマンで指導するという形式が主流でしたが、この方法だと指導する側の負担が大きくなってしまうことや、指導者と新人との相性の問題が生じることもありました。現在は、病院の看護部全体で新人を育成するという共通認識のもと、部署内の複数の看護師がチームとして関わり、多角的な視点からサポートする体制を整えています。
― 1対1の指導から、チーム全体での多面的な育成へとシフトされているのですね。
工藤: そうです。チームで育成することにより、新人は様々な経験を持つ多様な先輩看護師から幅広い知識や技術を学ぶことができますし、指導する側も一人で責任を抱え込むことなく、それぞれの得意分野を活かした指導を行うことができます。例えば、ある新人に対しては、技術指導はこの先輩が、精神的なサポートは別の先輩が、というように、それぞれの新人の特性や課題に合わせて、最も効果的な関わり方ができるよう工夫しています。
― 非常に手厚く、合理的な対応ですね。その他に、育成において特に重視されている点はありますか?
工藤: 記録の正確な記述方法や、患者さんやご家族への分かりやすい説明の仕方など、自分が行った看護を的確に言語化する能力の育成も非常に重要だと考えています。先ほどお話しした看護の学問的な発展という視点とも深く関連しますが、自分が行った看護ケアの内容やその根拠をきちんと他者に説明できること、そしてそれを正確に記録として残せることは、質の高い看護を提供する上で不可欠なスキルです。そのための研修プログラムの実施や、日々の業務を通じた指導にも力を入れています。
― きめ細やかな育成体制が、看護師一人ひとりの潜在的な能力を最大限に引き出し、目まぐるしく変化する医療環境にも柔軟に対応できる実践力を養うことに繋がっているのですね。
工藤: そうありたいと心から願っています。手厚い教育体制と温かいサポート体制によって、新人看護師が安心して看護師としてのキャリアをスタートさせ、着実に専門性を高めていけるような、成長を促す職場環境づくりをこれからも目指していきたいと考えています。
文字を通じた対話においてもタイムリーな返答が大きな精神的な支え、安心感に繋がる
― 最後に、看護師にとって極めて重要となる対話力や言語化力について、工藤さんのご見解をお聞かせいただけますでしょうか。また、これからの未来を担う看護師たちへの温かいエールもお願いいたします。
工藤: 日々の臨床現場で患者さんと接する中で、言葉を選び、それを相手に伝えるということの難しさと重要性を常に感じています。「書く」という行為と「話す」という行為は、どちらも言葉を用いる点では共通していますが、その特性や相手への伝わり方には少し違いがあるように思いますね。近年では、特に「書く」コミュニケーションの形も進化してきていると感じます。例えば、LINEのようなチャットツールを活用して、医師や他の専門職、あるいは訪問看護師と病院の看護師が、患者さんの情報をリアルタイムに近い形で共有できるようになりました。これにより、患者さんの細かな状態変化にも迅速に対応しやすくなったという実感があります。
― なるほど。記録としての正確性と、対話としての柔軟性、そして情報共有の迅速性など、それぞれのコミュニケーション手段に異なる役割とメリットがあるということですね。
工藤: そうですね。看護記録は、医療チーム内での情報共有や法的証拠としての意味合いも持つため、「書く」際には客観的な事実を正確かつ簡潔に残すことが強く求められます。しかし、患者さんやご家族との日々のコミュニケーションにおいては、「話す」ことが圧倒的に中心となります。そこでは、相手の言葉に真摯に耳を傾け、その言葉の奥にある本当の気持ちや願いを丁寧に汲み取り、心に寄り添った温かい言葉を選ぶことが何よりも大切になってきます。
― 患者さんの声にならない思いを「聞き出す力」、そしてそれを理解し共感する力が非常に重要になりそうですね。
工藤: その通りです。そして、この「聞き出す力」は、直接顔を合わせて話す場面だけでなく、文字を通じた対話においても非常に重要です。特に在宅で療養されている患者さんやそのご家族にとっては、不安を感じた時にすぐに医療者に相談でき、タイムリーな返答があるということが大きな精神的な支え、安心感に繋がるのだと思います。医療者側にとっても、患者さんの日常生活の中での細かな変化や困りごとを早期に把握しやすくなるというメリットがあります。
― 個々の患者さんに合わせた、オーダーメイドのようなケアが求められるということですね。その中で、言葉遣いというのも重要な要素になりそうですね。
工藤: はい。言葉遣いもその一つです。カルテのような公的な記録では、当然ながら正確で専門的な言葉遣いが求められます。しかし、患者さんとの直接的なやり取りの場面では、必ずしも堅苦しく感じる「ですます調」である必要はないと考えています。相手の方との関係性やその時の状況、会話の流れに応じて、時には少しくだけた親しみやすい言葉を選ぶことで、心の距離がぐっと縮まり、普段はなかなか話せないような本音や深い悩みなどを引き出しやすくなることも実際にあります。その場の空気感を読み、相手に合わせた言葉を選ぶという、その見極めが非常に大切になってきますね。
― これからの看護師には、より一層そうした人間的な温かみと専門性を兼ね備えたコミュニケーション能力が求められるということですね。
工藤: そう強く思います。医療技術がどれほど高度化し、情報がどれほど社会に溢れるようになったとしても、最終的に人と人との心を繋ぐのは、温かい血の通ったコミュニケーションです。患者さんの心の奥深くにまで届くような言葉を丁寧に紡ぎ、揺るぎない信頼関係を築くことができる、そんな看護師にぜひなってほしいと願っています。看護の道を歩んでいる皆さんには、仲間と支え合い、常に学び続ける姿勢を忘れずに、自分らしい看護の形を見つけていってほしいと願っています。
― 工藤さん、本日は看護の奥深さと未来への温かい希望に満ちた貴重なお話を誠にありがとうございました。
工藤: こちらこそ、ありがとうございました。
(インタビュー Tomopiia Nursing café 編集長 石田秀朗)